桜井市金屋の河川敷あたりに『佛教伝来之地』と書かれた石碑が建っています。
欽明天皇の時代。百済(いまの韓国西部)からの使節が川をさかのぼり、この地に上陸して仏教を伝えたと言われています。
今回は『佛教伝来之地』の碑をご紹介すると共に、仏教伝来についてまとめてみようと思います。
石碑とその周辺の様子
桜井市金谷を流れる大和川周辺の河川敷は「金屋河川敷公園」として整備されており、『佛教伝来之地』と書かれた碑もこの公園内(馬井出橋の北側)に建てられています。
近鉄桜井駅方面から河川敷を歩いて『佛教伝来之地』碑に近づいてみると、傍に小さな看板がありました。
しきしまの大和
「仏教伝来之地碑[山の辺の道・キーワード]しきしまの大和」と書かれています。
桜井市観光協会が設置された看板のようですね〜。
内容は以下の通りです。
仏教伝来之地碑
[山の辺の道・キーワード]
しきしまの大和金谷から城島(しきしま)小学校にかけての泊瀬(はせ)川畔一帯は欽明天皇・磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)が置かれたところで、西暦552年に百済から初めて仏教が公式に伝えられた地であります。
この時期は盛んに外国との交流があり、当時の桜井は国際都市として栄え、いわゆる「しきしまの大和」といって日本国の称号(たたえな)と呼ばれる中心地でありました。大和古道紀行
一般社団法人 桜井市観光協会
欽明天皇の時代、この地域一帯には欽明天皇の磯城嶋金刺宮が置かれていて、外国との交流も盛んであったこと。
またこの地域が、日本国の称号として「しきしまの大和」と呼ばれる中心地であったことが書かれています。
「しきしまの大和」についてネットで検索してみると、“「しきしま(磯城島)の」とは、万葉集に詠まれた大和(現在の奈良県域)の枕詞です。”と書かれていました。
以下のような歌があるようです。
どうやら近くに、この歌が揮毫された万葉歌碑があったようなのですが、今回は見逃してしまいました…;
またリベンジしたいと思います!
改めて『佛教伝来之地』碑を正面から見てみました。
一段高くなったところに、左から万葉歌碑・石碑・説明板と並んでいます。
万葉歌碑
碑の左隣には作者不詳の万葉歌碑があります。
揮毫者は樋口清之。
考古学者だが日本史・人類学・博物学とその研究領域は幅広く、新道考古学を体系づけた人物とのこと。
ちなみに、カジカ(河鹿と書きます)は蛙の一種。
シュルシュルシュルと鳴く声が鳥のように美しいそうです。
『佛教伝来之地』碑
前置きが長くなりましたが、いよいよ『佛教伝来之地』碑を見てましょう。
ずっしりと大きい、立派な石碑です。高さ3.8mとのこと!
力強く立派な文字で書かれていますが、石碑の下方に目をやると、書家でもあった東大寺の平岡定海(ひらおかじょうかい)別当による揮毫であることが分かりました。
右隣の案内板には以下のように記されていました。
仏教伝来の地
ここ泊瀬川畔一帯は、磯城瑞籬宮、磯城嶋金刺宮をはじめ最古の交易の市・海石榴市などの史跡を残し、「しきしまの大和」と呼ばれる古代大和朝廷の中心地でありました。
そしてこの付近は、難波津から大和川を遡行してきた舟運の終着地で、大和朝廷と交渉を持つ国々の使節が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきました。
「欽明天皇の十三年冬十月、百済の聖明王は西部姫氏達率怒唎斯致契達を遣して釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献る」と日本書紀に記された仏教伝来の百済の使節もこの港に上陸し、すぐ南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされています。
この場所は、仏教が初めて日本に送られてきた記念すべき地であります。
また「推古天皇十六年、遣隋使小野妹子が隋使裴世清を伴って帰国し飛鳥の京に入るとき、飾り馬七十五頭を遣して海石榴市の路上で額田部比羅夫に迎えさせた」と記されているのもこの地でありました。
私たちはこの地の歴史的由緒と、優れた日本文化を生み出す源流となった仏教伝来の文化的意義を、広く永く後世にとどめるため、ここに顕彰碑を建立しました。
平成九年七月吉日
日本文化の源流桜井を展く会
ここより東南約三百メートル(磯城嶋公園内)に磯城嶋金刺宮趾があり、宮趾の碑(保田與重郎書)と仏教公傳の文学碑が建てられている。
日本に仏教が初めて伝来した地であるとともに、舟運の終着地、海外との繋がりを持つ外港として、当時重要な土地だったことが書かれています。
仏教伝来
仏教伝来(仏教公伝)の具体的な年次については、古来から有力な説として552年(『日本書紀』)と538年(『上宮聖徳法王帝説』)の2説あり、現在では538年が有力とされているそうです。
いずれにおいても6世紀半ばに、継体天皇没後から欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられたことは確実のようです。
しかし、これ以前より渡来人とともに私的な信仰として日本に入ってきており、さらにその後も何度か仏教の公的な交流はあったと見て、公伝の年次確定にさほどの意義を見出さない論者もいるとのこと。
従来は単に仏教伝来と称されたが、公伝以前にすでに私的な信仰としては伝来していたと考えられるため、区別のため「公伝」と称されることが多いそうです。
552年説
『日本書紀』は552年(欽明天皇13年)に、百済の聖明王(聖王)が使いを遣わして仏像、経論、幡蓋を伝えたと記しています。しかし『日本書紀』の仏教関連の記事には潤色(うわべや表現をつくろい飾ること)が多く、史料的な価値は低いと考えられるため、538年説をとる見解が一般的とのこと。
以下、552年説についてwikipediaからの引用です。
『日本書紀』(720年成立、以後、書紀と記す)では、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や仏典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている。この上表文中に『金光明最勝王経』の文言が見られるが、この経文は欽明天皇期よりも大きく下った703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、後世の文飾とされ、上表文を核とした書紀の記述の信憑性が疑われている。
引用元:仏教公伝 – Wikipedia
伝来年が「欽明十三年」とあることについても、南都仏教の三論宗系の研究においてこの年が釈迦入滅後1501年目にあたり末法元年となることや、『大集経』による500年ごとの区切りにおける像法第二時(多造塔寺堅固)元年にあたることなどが重視されたとする説があり、これも後世の作為を疑わせる論拠としている。
また、当時仏教の布教に熱心であった梁の武帝は、太清2年(548年)の侯景の乱により台城に幽閉され、翌太清3年(549年)に死去していたため、仏教伝達による百済の対梁外交上の意義が失われることからも、『日本書紀』の552年説は難があるとされる。
しかしながら上表文の存在そのものは、十七条憲法や大化改新詔と同様、内容や影響から書紀やその後の律令の成立の直前に作為されたとは考えにくいとされ、上表文そのものはあったとする見方がある。
538年説
一方、『上宮聖徳法王帝説』、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では、公伝の年次を538年(宣化天皇3年)としています。
以下、538年説についてwikipediaからの引用です。
『上宮聖徳法王帝説』(824年以降の成立)や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(724年)には、欽明天皇御代の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。しかし書紀での欽明天皇治世(540年 – 571年)には戊午の干支年が存在しないため、欽明以前で最も近い戊午年である538年(書紀によれば宣化天皇3年)が有力とする説があった。
引用元:仏教公伝 – Wikipedia
これら二書は書紀以前の作為のない典拠であると思われていたことも含めて説の支持理由とされていたが、その後の研究でこれら二書の記述に淡海三船によって後世に追贈された歴代天皇の漢風諡号が含まれていることが指摘され、書紀編纂以降に成立していたことが明らかとなった。そのため作為のない典拠であるとは断言できなくなり、したがって論拠としては弱くなってしまった。
538年=552年説
538年と552年は同一年ではないか?とする説もあるようです。
以下、538年=552年説についてwikipediaからの引用です。
有働智奘は、『元興寺縁起』は538年、『日本書紀』は552年とする仏教公伝の年であるが、古代朝鮮三国の仏教史である『三国遺事』と百済の歴代王の年表である「百済王暦」は年代が14年ずれていると考えられ、このずれはまさに538年と552年の違いと一致するため、『日本書紀』は『三国遺事』の系列の資料、『元興寺縁起』は「百済王暦」の系統の資料に基づいている可能性があると指摘した。
引用元:仏教公伝 – Wikipedia
公伝の年次については他にも諸説があるようですが…
とりあえず、「ゴミは(538)午後(552)に」と、語呂合わせで覚えると覚えやすいです!(蛇足情報)
「佛教伝来之地碑」の情報
所在地:桜井市金屋172
時間 :見学自由
駐車場 :なし
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