吉野町から川上村役場方面へ国道169号線を走っていると、気になる石碑が目に入ったので車を停めて確認してみることにしました。(石碑を見つけたらとりあえず立ち寄る性質)
近くへ寄って見てみると、左から「後南朝最後の古戦場」と書かれた石碑・説明板・『御首載石跡(みくびのせいし)』と書かれた石碑の3つが並んでいました。
“古戦場” や “御首載石” というワードから、何だか血なまぐさい歴史を連想したのですが…、実際どういった由緒のある石碑なのか?
気になったので調べてみることにしました。
伊勢湾台風で流出した『御首載石』と、『御首載石跡』碑
ひとまずネットで情報を調べてみると川上村のHPに以下の記述がありました。
かつて、吉野川のほとり寺尾地区に「御首載石(みくびのせいし)」と呼ばれる苔むした大岩がありました。
1457年(長禄元年)12月5日、北塩谷の住人で弓の名人である大西助五郎は自天王を襲った赤松一党を待ち伏せ、一味の頭の中村貞友を強弓で射止めたとされます。赤松一党の手から取り戻した自天王の御首と神璽を安置し、ご冥福を祈ったと伝えられる岩は1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で流出されてしまいました。代わりに吉野川沿いに「御首載石跡碑」が建立されましたが、大滝ダムの建設に伴い国道169号沿い(寺尾)に移転しています。
引用元:後南朝史跡3 御首載石跡の碑 | 奈良県川上村
こちらの記述によると、御首載石と呼ばれる大岩が今とは別の場所にあったが、伊勢湾台風で流出してしまったとのこと。
「御首載石(みくびのせいし)」とは?
自天王の御首と神璽(三種の神器の一つである八尺瓊勾玉のこと)と遺品を安置し、ご冥福を祈ったと伝えられる大岩のこと。
その後、流された「御首載石」の代わりに吉野川沿い(今よりも下を流れる川の近く)に「御首載石跡碑」を建立。
しかし、大滝ダムの建設に伴い「御首載石跡碑」を現在の場所に移転したと書かれています。
ということは…
現在石碑が建っている場所は、正確には「御首載石跡」ではないということですよね?
南帝自天王の戦跡
つづいて、真ん中の説明板に注目をしてみます。
色が変色していてかなり読みにくいですが、説明板には以下のように書かれていると思われます。
南帝自天王の戦跡
引用元:南帝自天王の戦跡の説明板
ダム底に沈む集落は、むかし寺尾村塩谷村と呼んでいた。
長禄元年十二月二日南朝の後胤で南帝となるべき自天王の宮を足利幕府の密命を受けた赤松家遺臣らによって上北山村瀧川寺北山御所で襲撃し、宮の御首と神璽を奪って京都に逃げ帰ろうとした敵集団を迎撃せんとこの地に集った川上郷士との間に激しい戦いが行われた古戦場跡です。
水没した塩谷川岸に陰岩、対岸寺尾の国道沿いに腰掛岩があり、この腰掛岩に休息中の敵将中村貞友らを、郷士の中で弓の名人と言われた大西助五郎ら、陰岩から強弓をもって射殺した。また残敵も郷士らによって討ち取り御首及び神璽を奪還した。時正に十二月五日の夕暮れであった。
郷士たちは奪還した御首級神璽及び遺品を岩の上にお祀りし地に伏して慟哭、南朝の再興を誓いあった。
この史実を長禄の変と呼び延元元年南朝創始の年を去ること百二十二年、後南朝の御血統はここに断絶するにいたった。郷民協議のうえ宮の無念を偲び毎年二月五日の朝拝の儀が行なわれ今も絶ゆることなく続いている。長禄の変以来五四〇年ここに碑及び碑文を遺記し後世に永く伝えるものなり。
平成八年六月吉日
川上村朝拝組
吉野に逃れ、南朝の再建を目指して活動していた天皇の子孫たち。
そのうちの1人であった自天王(南朝最後の天皇である後亀山天皇の末裔)は、現在の川上村や上北山村で家臣や地元住民に守られて再起の機会をうかがっていましたが、長禄元年12月2日(1457年12月27日)、赤松家再興をめざす赤松家遺臣らによって殺害されてしまいます。(長禄の変)
南朝を擁護する川上郷士たちは自天王の御首と神璽を奪って京都に逃げ帰ろうとした赤松家遺臣らとこの地で戦闘し、御首と神璽を奪還。
奪還した御首と神璽及び遺品を岩(御首載石)の上にお祀りし、南朝の再興を誓いあったと書かれています。
また御首は郷民達の手により、神之谷の「金剛寺」に手厚く埋葬されたそうです。
川上村神之谷の金剛寺「御朝拝」
自天王の無念を偲び、毎年2月5日には自天王を葬ったとされる金剛寺で「朝拝の儀(御朝拝式)」が行なわれるとのこと。
ネットで検索してみたところ、動画を発見しましたので参考に載せておきます。
朝拝式
悲運の最後を遂げた自天王を偲び、三之公の御所で御即位された『朝賀拝礼』の儀式を模して、自天王の武具をご神体として崇める式典です。明徳三年(1392年)に、南北朝合一がなされた際に、南朝と北朝は交代で皇位につくことが約束されましたが、その約束は守られず南朝の皇子たちは吉野に逃れました。その後、長禄元年(1457年)に北朝方の赤松家一党によって、南朝の流れを受け継ぐ自天王(尊秀王)は若くして悲しい最期を遂げました。その惨事を伝え聞いた川上郷士たちは赤松家一党から自天王の御首を取り返し、金剛寺に手厚く葬ったと伝えられています。自天王の御首を奪い返した川上郷士の雄志は代々語り継がれ、長禄三年(1459年)から毎年2月5日には、遺品の兜(重要文化財)などを拝する御朝拝式が行われています。
引用元:朝拝式 | 奈良県川上村
「後南朝最後の古戦場」碑
「後南朝最後の古戦場」と書かれた石碑についても別で写真を載せておきます。
ドライブ中にふと気になって立ち寄ってみた場所ですが、自天王の無念や川上郷士たちの執念の戦いの一端を垣間見ることができる史跡でした。
「御首載石跡」碑の情報
所在地:奈良県吉野郡川上村寺尾
時間 :見学自由
駐車場 :駐車スペースあり
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