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男女の出会いも!?わが国最古の市場『海柘榴市』(桜井市)

万葉集をはじめ日本書紀枕草子にも登場する『海柘榴市(つばいち)』は、わが国最古の市として知られています。
現在は静かな住宅地となっていますが、『海柘榴市』があったとされる金屋(かなや)周辺は、万葉の時代には国内有数の交易の中心地でした。
また、若い男女が集まって互いに歌を詠み交わす「歌垣」も行われていました。

ネット上には「海榴市」という表記もありますが、当記事では『海柘榴市』で統一したいと思います。

目次

海柘榴市があった場所の現在

『海柘榴市』があったとされる金屋の辺りは桜井駅から1.2kmほど北側の場所にあります。
近くを流れる大和川の河川敷には「佛教伝来之地碑」も建っており、交通の要衝として古代から重要な土地であったことが伺えます。

「海柘榴市跡」周辺の様子

「海柘榴市跡」近くには「海柘榴市観音堂」がありますが、目で見て分かるような遺跡が残っているというわけでもなく普通の住宅地となっていますので、ここにわが国最古の市場があったとは…なかなか想像できないかもしれませんね。

海柘榴市とは?

「海柘榴市跡」とされている場所には看板が設置されていますので、内容を見てみましょう。

手前の道しるべが邪魔で読みづらい…笑

看板の内容は以下の通りです。

海柘榴市(つばいち)

 ここ金屋のあたりは古代の市場海柘榴市のあったところです。そのころは三輪・石上を経て奈良への山ノ辺の道・初瀬への初瀬街道・飛鳥地方への磐余(いわれ)の道・大阪河内和泉から竹ノ内街道などの道がここに集まり、また大阪難波からの舟の便もあり大いににぎわいました。春や秋の頃には若い男女が集まって互いに歌を詠み交わし遊んだ歌垣(うたがき)は有名です。後には伊勢・長谷詣が盛んになるにつれて宿場町として栄えました。

この辺りは大阪から大和川をさかのぼってくる川船の終着点であり、当時の幹線道路である山の辺の道・初瀬街道・磐余の道・竹ノ内街道が交錯する交通の要衝でもあったため、『海柘榴市』は人々の往来で大いに栄えたようです。

この地に人々が集っていたということは、それだけ沢山の人間ドラマが生まれた場所でもあるのでしょうね。

万葉文化館で海柘榴市の様子が再現されています!

『海柘榴市』って実際にはどんな雰囲気だったのでしょう?

そのイメージを掴むために最適な場所が、明日香村にある万葉文化館ではないでしょうか!
地下1階の歌の広場では、海石榴市をはじめ東市、西市、軽市などをイメージした古代の市空間や、歌垣に興じる男女の様子が人形や模型などを使って再現されています。

古代の市場

歌の広場(地下1階)

海石榴市をはじめ東市、西市、軽市などをイメージした古代の市空間を再現します。個々の小屋に展示ユニットを配し、「声」で歌われた古代の歌から「文字」で表現された歌、アジアの歌など、万葉歌を中心とした様々な歌に出会えます。
歌垣に興じる男女、市の人々などのシーンを再現したり、歌垣に始まり、万葉時代までの掛け歌の系譜を映像で紹介したり、パソコンを使ったクイズ形式のゲームがあったりと古代空間を体感できます。
歌を通して男女が誘い合う歌垣の様子を常陸国風土記や日本書紀に載せられた物語を例にファンタジックな紙芝居風アニメーションで紹介します。

引用元:館内案内(地下一階)|奈良県立万葉文化館

人形に近づくと歌声や音楽が流れたりして、『海柘榴市』の賑わいや当時の人々の姿をよりリアルに感じることができます。
ほかにも様々な展示や体験施設等がありますので、明日香村を訪れた際はぜひ万葉文化館も訪れてみてくださいね!

海柘榴市を詠んだ万葉歌

古代、若い男女は歌垣で結婚相手を探した。歌垣とは、男女が集まり、即興でつくった歌を掛け合いながら求愛する風習だ。『万葉集』からもそれを知ることができる。
歌垣には、若者だけではなく、歌を教える人がいたらしい。歌には決まったリズムや言葉があったという。現代は著作権などの観点からオリジナリティーを重視するが、古代では、誰もが知っているフレーズをあえて使うことが教養のある人だと思われていたようだ。

引用元:ベテランが指南する、恋の必勝法(コラム)|歩く・なら

冒頭で “若い男女が集まって互いに歌を詠み交わす「歌垣」が行われていた” と書きましたが、海柘榴市で詠まれた歌がいくつか残っていますので、ご紹介したいと思います。

紫(むらさき)は 灰指(さ)すものそ 海石榴市(つばいち)の 八十(やそ)の衢(ちまた)に 逢へる児(こ)や誰
作者未詳(万葉集 巻12-3101)

現代語訳:紫の染料は灰汁を入れるものよ。灰にする椿の、海石榴市の八十の辻に逢ったあなたは何という名か。

※「紫は灰指すものそ」は、海石榴市を導き出すための序詞。海石榴市の海石榴とは椿のことであり、紫を染めるのに椿の木灰を媒染料にしたことから、「紫は灰指すものそ」と歌い出して、海石榴市に繋げている。海石榴市には、椿の木が多く植えられていたようだ。

この歌は男性が『海柘榴市』で出会った女性に、高貴で美しい紫色の染め物を連想させながら求婚した歌です。
男性が女性に名前を尋ねるというだけのことですが、当時は名前を尋ねることはプロポーズを意味し、女性が名前を教えることは結婚を了承したことになりました。

果たして結果はどうだったのでしょうか?
この歌に対する女性の返歌も残っていっます。

たらちねの 母が呼ぶ名を 申(もう)さめど 道(みち)行(ゆ)く人を 誰(た)れと知りてか
作者未詳(万葉集 巻12-3102)

現代語訳:母が呼ぶ(私の)名をお教えしたいけれども、通りすがりの人が誰かは分からないので(お教えできませんことよ)。

ゆきずりの男性に簡単には応じられない、と女性は答えています。
男性は残念でしたね…。

他にも以下のような歌が残っています。

海石榴市(つばいち)の 八十(やそ)の(ちまた)に 立ち平(なら)し 結びし紐(ひも)を 解(と)かまく惜(を)しも
柿本人麻呂(万葉集 巻12-2951)

現代語訳:海石榴市のいくつもの分かれ道で地をならして踊って、結び合った紐を、解いてしまうのは惜しいことです。

※「八十の衢」とは、多数の道が合流した地点のこと。

悲恋の影媛伝説

『海柘榴市』を舞台にした、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の娘である影媛伝説もご紹介します。

五世紀末、ひとりの美女をめぐって二人の男が争った悲劇を『日本書紀』は伝えています。
女は物部氏の娘、影媛。争ったのはときの皇太子(のちの武烈天皇)と、朝廷の権力者だった平群真鳥(まとり)の子、鮪(しび)でした。

海柘榴市の歌垣で2人の男は歌をやりとりして応酬するが、皇太子は影姫と鮪がすでに恋仲であることを知る。すでに影媛の心は鮪のもので自分の意のままにならないと知った皇太子は、大伴金村(おおとものかねむら)に命じて鮪を平城山(ならやま)で殺し、さらに鮪の父、真鳥をも攻め滅ぼしてしまいます。

恋人の身を案じて北へ向かった影媛は、愛する男の無惨な死を目にし、泣きながら歌います。

石いその上かみ布留ふるを過ぎて 薦こも枕まくら高橋過ぎ
物もの多さはに大宅おおやけ過ぎ 春日はるひ春日かすがを過ぎ
妻隠こもる小佐保をさほを過ぎ (中略)
泣き沾そぼち行くも 影媛あはれ

海柘柑市から布留、大宅、春日から平城山へ・・・。影媛がたどったこの道こそ、古代の山の辺の道だったと思われます。

武烈天皇…なんてことを!!

「海柘榴市跡」の情報

所在地:奈良県桜井市金屋536

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