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全国で唯一!蘇我入鹿を祀る『入鹿神社』(橿原市)

大和八木駅から西へ徒歩で10分ほど。
橿原市小綱(しょうこ)町という町に、逆臣といわれ乙巳の変で討たれた蘇我入鹿を祀る神社があります。

蘇我入鹿は小説や漫画などに登場する際は悪人として描かれることが多い人物。その為なのか?蘇我入鹿をお祀りしている神社は全国でもここだけなのだそうです!

目次

歴史・伝説

『入鹿神社』のホームページによると、飛鳥時代このあたりは蘇我氏の領地で(隣町が曽我町)この地に蘇我入鹿の母の館があったとか、母がこの地の出身で蘇我入鹿が幼少期にこの地で過ごしたのではないか?とも言われているそうです。
ですので、冒頭でも書かせていただいた通り『入鹿神社』の祭神は「蘇我入鹿」となっています。

そして、更にもう一柱「素盞鳴命(スサノオノミコト)」もお祀りされています。

創祀年については不明のようですが、ホームページ内に分かりやすい説明がありましたので引用させていただきます。

入鹿神社は廃寺真言宗高野山派仏起山普賢寺の東南部の一段高い所に西に向かって建ち、もとは同寺の鎮守社であったと伝えられる。
祭神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)と蘇我入鹿大臣の両柱を合祀している。
素盞鳴命と蘇我入鹿の木造坐像を神体とし本殿に丈1尺の木造立像2体が安置されている。 
現在の橿原市周辺は蘇我氏ゆかりの地であり、小綱町の隣町には曽我町(蘇我)といった地名も残る。曽我町には、蘇我馬子が創建した宗我都比古神社があり、蘇我氏の始祖を祀っている。因みに入鹿神社の鳥居は蘇我氏の始祖地の曽我町(蘇我)に向かって西向きに建っている。
入鹿神社は祭神が素盞鳴尊のため、かっては印度舎衛国にあった祇園精舎の守護神の習合として牛頭天王社と称されたこともある。
入鹿神社の社名について明治時代に入鹿神社から約4kmの所に明治22年に橿原神宮が造営されるにあたりに、皇国史観に基づいて神武天皇を祀る橿原神宮の近くに、逆臣である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪いとして、祭神をスサノオに、社名を地名からとった「小綱神社」に改めるように政府から言われたが、地元住民はそれを拒んだという。
日本書紀に基づいた「蘇我氏逆臣説」が日本史に通説となっていた時代も含めて地元の人々から「蘇我入鹿公」と公を付けて崇敬を集めている。

引用元:<公式>入鹿神社

明治時代に、皇国史観に基づいて逆臣である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪いとして、“祭神をスサノオに、社名を地名からとった「小綱神社」に改めるように政府から言われた” という歴史があるようなので、そこから素盞鳴命も祭神に加わったのかな?と思います。

しかし、社名を改めなかったというのは、地元の方の蘇我入鹿に対する信仰の厚さが伺えますね。

首から上の病に霊験あらたかな神様

『入鹿神社』の祭神である蘇我入鹿は、645年6月12日、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子らに首をはねられてしまいます(乙巳の変)。
そのため、入鹿神社は昔から「首の上の病に霊験あらたかな神」として信仰があり、全国からお詣りが絶えないのだそうです。

また、この時にはねられた入鹿の首は各地へ飛んでゆき、飛鳥地方を中心に全国で5箇所「蘇我入鹿の首伝説」が伝わっています。
こちらのお話については、またいつか別記事にしたいとも思っておりますが、以前SNS用に【入鹿さん 首飛びMAP】なるものを作りましたので、画像を貼り付けておきます。

学業成就の神様

『入鹿神社』は首から上の病の他に、「学業成就の神様」としても厚い信仰があるとのこと。

蘇我入鹿は、“第3回遣隋使として小野妹子らとともに隋に留学した南淵請安が飛鳥に開いた塾で、中臣鎌足を除いて蘇我入鹿公の右に出る者がいないと言われるほどの頭脳明晰であった” ことから、このような信仰も生まれたようです。

境内・周辺の様子

民家が立ち並ぶ町中に『入鹿神社』は鎮座しています。

神社脇に駐車場もあります

鳥居

鳥居の扁額には黒地に金で入鹿神社と書かれています。
比較的新しいものかな?

拝殿

いつ頃建てられたものなのか?拝殿についての詳細は調べても分かりませんでしたが、それほど古いものではないのかな?

拝殿前の狛犬さんたちもパシャり!
狛犬ってマニアの方も多いですし、ついつい写真を撮っちゃいますよね。

拝殿前

拝殿に近づいてみると、「ご自由にお取りください」と書かれたチラシや、自動音声ガイドのQRコードなどが掲示されていました。
御朱印は神主が常駐していないということで、ホームページで受け付けておられるようですね!

拝殿内

拝殿内も撮影OKとのことでしたので、数枚写真を撮らせていただきました。

レプリカ

『入鹿神社』の本殿には木像の素戔嗚尊の立像入鹿大臣の座像二体が御神体として奉安されているとのことですが、実物を見ることはできません。
ですが、蘇我入鹿公御神体のレプリカは拝殿内の中央に陳列されており、見ることができます。

蘇我入鹿公御神体のレプリカ

板絵

拝殿正面の扉両脇(板戸)には制作年代不詳の随神さんの絵が描かれています。

随身(ずいじん、ずいしん)とは、平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことである。また、日本の神道において、神を守る者として安置される随身姿の像のことも「随身」といい、この場合は随神とも書かれる。門守神(かどもりのかみ)、看督長(かどのおさ)、矢大神・左大神とも言う。なお、神社の門のうち、門の左右に随身(随神)を安置した門のことを「随身門」と呼ぶことがある。

引用元:<公式>入鹿神社

本殿

拝殿の奥には橿原市指定文化財の本殿があります。

本殿は一間社春日造で、神舎は丸柱、柱上に三斗を組み、背面を除く頭貫桁間(かしらぬきけたま)に中世風の面影を残す蟇股(かえるまた)を置く。中央蛙股肘木の中に丹精に彩色された彫刻が施され、屋根は桧皮葺(ひわだぶき)で、棟は箱棟に千木、かつお木を取り付けた江戸初期の頃の建物である。
全体として室町時代の風格を思わせる建造物として昭和55年3月17日橿原市の指定文化財として指定を受ける。
建立後大正2年6月に一部修理をされていたが、近年老朽化が進み、昭和61年度に解体修理が行われた。

引用元:<公式>入鹿神社

鮮やかな朱塗り本殿は江戸時代初期に建てられたものとのこと。

本殿正面

蛙股肘木の中には丹精に彩色された鶴の彫刻があります。
また、斜めから本殿を眺めると一間社春日造であることがよく分かりますね!

末社

その他にも本殿の左側には末社があり、左から稲荷神社・八幡神社・秋葉神社が祀られていました。

正蓮寺大日堂

『入鹿神社』と同じ敷地内には重要文化財となっている「正蓮寺大日堂」もありますが、こちらについてはまた別記事で書きたいと思います。

正蓮寺大日堂

庚申塔(今は無くなった庚申講)

境内にひっそりとあった庚申塔(こうしんとう)についても『入鹿神社』のホームページで言及されていましたので、引用させていただきます。

庚申塔

康申さんと「お日待ち」

小綱町には「庚申講」という講があり、「お日待ち」(夜を寝ないで過ごすこと)という行事が昭和の終わり頃まで連綿と続けられていた。
60日に一度の庚申の日に人間の体内にいるという三尸(さんし)虫※が、人間が寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行き、 早死にさせる(道教の教え)と言われているので、地域で庚申講とよばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で庚申待ちが行われるようになった。
人々(主に男衆)が女性が作った手料理を持ち寄って夜通し眠らないで全員で飲食を共にしながら天帝や猿田彦や青面金剛を祀った。
一人では夜を過ごすことは難しいことから、眠らないように、顔にスミを塗ったり、胡椒をかけたり、太鼓を叩いたりしたという。またカフェインが入っている茶を飲んで眠らないようにしたともいう。
また「庚申様」は月のモノや出産の汚れを嫌うというので、女性は主に飯の準備や片付けが役目である。
庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことで、庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からである。明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進めた。
さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになった。小綱町の庚申塔は恐らく街道筋に置かれていたものを街道の拡張整備工事等で入鹿神社境内のi入り口、大鳥居西に移転されたものと思われる。
現在、残存する庚申塔の多くは寺社の境内や私有地に移転されたものや、もともと交通量の少ない街道脇に置かれていたため開発による破壊を免れたものである。田舎町へ行くと、今でも道の交差している箇所や村落の入り口などに、「庚申尊天」と書かれた石柱を見ることができる。

※三尸(さんし)とは、道教に由来するとされる人間の体内にいる虫。
三虫(さんちゅう)ともいう。上尸・中尸・下尸の三種類で、上尸の虫は道士の姿、中尸の虫は獣の姿、下尸の虫は牛の頭に人の足の姿をしている。大きさはどれも2寸で、人間が生れ落ちるときから体内にいるとされる。

引用元:<公式>小綱町の伝統行事

手水鉢と盃状穴

更に『入鹿神社』のホームページを読ませていただいて面白いなぁと思ったのが、境内にある手水鉢(ちょうずばち)の盃状穴(はいじょうけつ)です。

『入鹿神社』の手水鉢(ちょうずばち)

「盃状穴(はいじょうけつ)」とは神社の灯篭や手水石等に彫られている「穴」で女性のシンボルをかたどったのではないかとされ、豊穣や安産、子宝を願うものだったと説明されているが諸説も沢山あり未解明な部分も多い。

現在でも病気の治癒や子宝に恵まれる事を願って信仰されている。

「盃状穴」は古代文明のエジプトやカンボジアのアンコールワット遺跡、チベット、ネパールフランスのモンシャンミッシェル、ギリシャの古代遺跡、メキシコのアステカ文明・マヤ文明の遺跡や中国、韓国、オーストラリア、トルコ等の古代遺跡等有史以前に遡り世界中にあるようで日本でも縄文時代頃から作られていて、鎌倉以降のものはお寺や神社の石に刻まれる例が多い。

引用元:<公式>入鹿神社

入鹿神社境内手水鉢には8個の盃状穴が確認出来るとのこと!

確かに穴が彫られています!

女性のシンボルをかたどったもので、現在でも病気の治癒子宝に恵まれる事を願って信仰されている。とのことですが、詳しいことはよく分かっていないようですね。

「穴」を掘った目的の研究は、日本では明治時代に坪井正五郎鳥居龍蔵によって考古学的な研究が行われたそうなのですが、その後の考古学者の興味を引く事はなく、あまり研究は行われてこなかったそうです。

実際に穴を掘っている人を見つけて理由を尋ねてみたいですが…、今やったら器物破損になりますよね;

その他の写真

最後に境内の写真をあれこれと載せておきます!

伝統行事

1月1日 10時〜年始祭
1月14日 15時〜大とんど
9月1日〜30日鈴虫の鳴く夕べ
10月第2土曜日 夕刻〜ローソク1本
こども相撲
10月第2土曜日(宵宮)
10月第2日曜日(本宮)
秋祭り

「入鹿神社」の情報

所在地:奈良県橿原市小綱町335(アクセス情報

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