鑵子塚古墳、白壁塚古墳と共に、与楽古墳群として平成25年(2013)に国史跡となった「与楽カンジョ古墳(乾城古墳)」。
名前を聞いたことがあったものの、実物を見たことはなかったので見学に行ってきました!
墳形
この日は朝から雨が降っていて、雨が止んだ後もずっと曇りのドンヨリした天気だったのですが…
「与楽カンジョ古墳」に着いた瞬間、空がパッと明るくなりました♪(ラッキー)
やっぱり古墳には青空が似合う気がします!
平成20年(2008)の再調査が行われるまでは直径20m前後の円墳だと考えられていたそうですが、現在は古墳の形状が綺麗に整備されていて、一見して方墳だということが分かります。
また後述しますが、一辺36mほどの方墳で、墳丘の南裾からの高さは11mとのことです。
後ろ側からも撮ってみました。
後ろ側は石室内を見学した後に撮ったので、この2枚の写真だけは曇り空になってしまいました…;
内部
続いて、石室内の様子です。
まずは入り口付近から中を覗いてみます。
羨道の長さ約5.3m、玄門の幅1.5m。
玄室の手前には柵があります。
羨道部分に「高取 埋蔵文化財(埋文)散策マップ」なるものが置かれていたので、一部いただきました。
マップ内に「与楽カンジョ古墳」について説明文がありましたので、以下転載させていただきます。
国指定史跡 与楽カンジョ古墳
大字与楽にある与楽カンジョ古墳は一辺36m墳丘の南裾から高さ11mの方墳である。墳丘南面に石室玄室は長さ6m幅3.8m高さ5.3mを測る。大型の閃緑岩を5段積んだ石室を構築した両袖式で、羨道の長さ約5.3m玄門の幅1.5mを測り、羨道の先端は拡がっている。玄室内に漆喰をペースト状に固めた棺台がある。石室内から金銅製耳環・銀製指輪、不明鉄製品、砥石・須恵器・土師器等が出土した。カンジョ古墳は玄室の平面規模に比べ天井までが高いドーム型の石室で、高さでは奈良県で一番である。古墳の築造は7世紀前半と考えられる。また、羨道閉塞石の下から8世紀初頭の須恵器杯が出土した。カンジョ古墳を含め与楽古墳群は石室形態や出土遺物から渡来系氏族東漢氏と考えられている。
引用元:高取 埋蔵文化財(埋文)散策マップ
柵越しに覗いてまず目につくのが、地面にある赤くて四角い物体。
周辺の葺石?も綺麗に並んでいて、他の古墳ではあまり見ない形状に思えます。これは復元なのでしょうかね?
赤くなっている部分は、先ほどの散策マップの説明によれば「漆喰をペースト状に固めた棺台」とのことでした。
石を削って作ったものかと思いましたが、漆喰なんですね〜。
玄室内は写真1枚に収まりきらなかったので、2枚に分けて載せておきます。
玄室は長さ6m、幅3.8m。高さは平面規模に比べて約5.3mとかなり高くなっています。
これは明日香村の石舞台古墳(高さ4.8m)をも凌ぎ、奈良県内の古墳では最大の高さを誇ります!!
どおりで写真一枚に収まりきらないワケだ…!
(石舞台古墳に行かれたことがある方は分かると思いますが、5.3mってかなりの高さですよね。)
石室を包む四方の壁には石が4~5段に積み上げてあります。高い天井部分は一枚の巨石から成っています。
このような石室の構造(ドーム状石室)や渡来系の出土遺物(ミニチュア炊飯土器の出土)から、「与楽カンジョ古墳」が東漢氏の首長墓であった可能性が示唆されています。
ちなみに、石室から見える風景はこんな感じです。
古墳へ行った時は、被葬者の目線で写真を撮るのが結構好きなんですよね〜。
平成27年(2015)の調査では、石室の入口を閉じる閉塞石の下から7世紀末~8世紀初めの土器片が出土したそうです。
古墳の築造は6世紀末~7世紀初めと推測されているので、その約100年後に追葬があったと見られています。
道沿いで見学もしやすい古墳ですので、ご興味のある方は是非訪れてみてくださいね!
⚠️閲覧注意
「与楽カンジョ古墳」の写真をTwitterに載せたところ、「秘密基地みたい…」との感想をフォロワーさんにいただいたので、(怒られるだろうと思いつつ)酷いコラ写真を作ってしまいました。
せっかく作ったので、最後にこっそり載せておきます。
「与楽乾城古墳」の情報
所在地:奈良県高市郡高取町与楽
墳形 :方墳
築造年 :6世紀末~7世紀前半頃
埋葬施設:横穴式石室
被葬者 :周辺を墓域とした渡来系氏族、東漢氏の盟主か?
出土品 :金銅製耳環・銀製指輪・不明鉄製品・砥石・須恵器・土師器(ミニチュア土器把手含む)等
コメント