かつて奈良県大淀町佐名伝(さなて)にあった『おいの池』のことを知っている人は、一体どれくらいいるでしょうか?
そこには若い男女の悲しい物語があったのですが…。
おそらく地元の人でも知る人は少ないだろうと思います。
冒頭に“かつて”と書いたとおり、現在『おいの池』はその姿を消してしまい、ますます存在感が薄れつつあります。
このまま知る人も少なくなり、世の中から忘れ去られてしまうのはとても悲しいことなので、せめてここに私が見た『おいの池』
悲しい恋の物語
まず『おいの池の物語』とは一体どんなお話なのか?
まんが日本昔ばなし〜データベース〜 – おいの池ものがたりから物語部分を引用させていただきましたので、ご存知のない方はぜひ目を通してみてください。
※HPの文章中に間違い(「奈良」の部分が「京都」と書かれていました)を発見しましたので、訂正して掲載しております。
おいの池ものがたり
引用元:まんが日本昔ばなし〜データベース〜 – おいの池ものがたり
昔、佐名伝(さなて)村にある小さな池は、奈良の興福寺の猿沢の池と地下でつながっている、という言い伝えがあった。この佐名伝村には、心優しい「おいの」という娘がすんでいた。
ある日、お地蔵さんにお供え物をあげにいくと、気を失って倒れている旅のお坊さんを見つけた。おいのはお坊さんを背負い、看病するために自宅に連れて帰った。おいのは父親と二人で看病するうちに、その顔立ちが美しすぎるお坊さんに恋をしてしまった。
まもなく元気を取り戻したお坊さんは、奈良の興福寺(こうふくじ)に向けて旅立って行った。おいのはお坊さんの事を恋慕い、我慢できなくなり、お坊さんを追いかけて奈良を訪れた。やっと再会できたお坊さんに告白したが、「修行中の身だから」と断られてしまった。落胆したおいのは村へ帰り、池に身を投げて死んでしまった。
それから数日後、興福寺の猿沢の池においのの笠(かさ)が浮かんできた。丁度そこへ、おいのの父親がお坊さんを訪ねてきて、おいのが遺書を残して死んだと告げた。
それからまもなく、お坊さんの姿も見えなくなった。実はお坊さんもおいのの事が好きだったので、きっと、おいのの後を追って身を投げたのだろうと噂された。
「おいの」という女性が興福寺の僧と相思相愛になったものの叶わず、入水自殺してしまったのが『おいの池』です。
『おいの池の物語』については、大淀町や奈良県のHPなどにも掲載されていますので、ご興味のある方は以下のリンクからご覧ください。
物語のディテールや表現方法がそれぞれ違っていて、読み比べるのも面白いです。
興福寺の猿沢池と地下でつながっている!?
なんとも悲しい物語ですが、驚くのは入水自殺した時に、おいのがかぶっていた笠が、興福寺の猿沢池で発見されるというくだりです。
大淀町佐名伝のおいの池と興福寺の猿沢池は地下でつながっているというのです。
この物語を聞いた時、私が真っ先に思い浮かべたのは東大寺二月堂の「お水取り(修二会)」です。
(詳しくは割愛しますが、毎年3月2日に小浜市神宮寺の「お水送り」よって送られたお香水が、若狭の鵜の瀬から10日間かけて奈良東大寺二月堂「若狭井」に届くといわれており、そのお香水を汲むのが「お水取り」です。)
遠く離れた若狭と二月堂の閼伽井(井戸)がつながっているくらいなのだから、大淀町と奈良市の池がつながっていても不思議ではないなぁ…と、当時思ったのを覚えています。
「まんが日本昔ばなし」にも登場
先に書いてしまったので、あまり驚きもないかもしれませんが…。
かの有名な「まんが日本昔ばなし」でも「おいの池ものがたり」として、この物語がテレビ放映されています。
(大きな声では言えませんが、ネット検索すると動画が出てきますので、ぜひ「おいの池ものがたり」で調べてみてください。)
演出もとても素晴らしく、おいのと若い僧の切ない感情が見事に表現されています。DVD化されていないのが残念なくらいです。
おいの池の現在
それでは、『おいの池』が実際にあった場所は今どうなっているのか?
以前写真を撮りに行ってきましたので、ご紹介しておきます。
場所は、佐名伝の集落に近い吉野川の川辺(国道370号線沿い)にあります。(地図は大体なので、行かれる方は参考程度にしてください。)
先ほどから何度も書いているとおり、『おいの池』は平成23(2011)年の紀ノ川河川改修工事により、残念ながら姿を消してしまったため、かなり場所が分かりづらくなっています。
私も数年ぶりの訪問で大体の位置しか把握していなかったので、見つけるまで少し苦戦しました。
一度河川敷に下り、周辺を歩いてみたものの見つからず。
すぐ近くにあった、梨屋さんで聞いてみたのですが…
「う〜ん?なんだかそんなのがあったと聞いたけど…。どこだったかな?」
という不安な回答。
しかし、案内板が道沿いに立っているとの情報を得て、ようやくたどり着きました!
車で走っていると気づかないかもしれません。
書かれている内容は以下の通りです。
おいの池のこと
みなさんが立っているこの地を、佐名伝(さなて)といいます。
今から400年ほど前の江戸時代には、この地を東西に横断する道(伊勢街道)がひらかれ、和歌山から東へ、東へと、紀ノ川(吉野川)をさかのぼり、伊勢富士(高見山)を越えて伊勢にいたる道を、数多の旅人たちが往来したと伝えます。この地はその頃、宇智郡大阿太村(うちぐんおおあだむら)に属していましたが、昭和27(1952)年に吉野郡大淀町へと編入され、大淀町大字佐名伝区として今にいたっています。
みなさんが立つこの吉野川のほとりには、かつて古池が残されていました。それは、芝で覆われた岩場のうえにぽっかりとあいた、東西57メートル、南北15メートル、深さ(もっとも深い所で)2.5メートルのひょうたん形の大穴に、長年の雨水が溜まったものでした。
その昔、「おいの」という世にも稀なる乙女が、若くしてこの池に身をしずめたといいます。また、付近の芝地は「姫ヶ芝(ひめがしば)」ともいい、踏みしめると、その音が響き渡ることから「鼓芝(つづみしば)」ともいいました。また、この池は奈良・興福寺のたもとにある猿沢池と、水底でつながっているとも伝えられてきました(吉野川下り保勝會「吉野川千石橋を中心とせる附近の名所旧蹟」昭和7年刊)。
この伝承をもとに、少女「おいの」と興福寺の僧・俊海(しゅんかい)がおりなす、悲しい恋物語をこの池に託し、『まんが日本昔ばなし』などを通じて世に知らしめたのは、佐名伝出身の文学作家であり郷土史家でもあった花岡大学(はなおかだいがく/1909-1988)でした。
おいの池は、平成23年、紀ノ川河岸の改修工事によって、惜しまれながらその姿を消しました。私たちは、その伝承をかみしめながら、かつて響いた芝の妙音を偲び、後世にその由来を託します。
令和元年
佐名伝自治会
そういえば、『おいの池』周辺の土地を踏みしめると、その音が響き渡ったという「姫ヶ芝」の話は、私の父からも聞いたことがありました。
案内板に掲載されていた、かつての『おいの池』(平成23年撮影)
そして現在の『おいの池』(令和元年8月撮影)
文章を打ちながら、昔からのものを守っていくことの難しさを感じるとともに、今も残っているものが「当たり前じゃない」ことに、改めて感謝しなければいけないと思いました。
そして、姿がなくなってしまったとしても、人から人へと伝えていくことがいかに大切か…。
私は奈良県の各地に残っている物語が大好きです。
ですので、これからも可能な限り記録として残していきたいと思います。
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